父の命日に寄せて

2月29日は、2000年に亡くなった父の命日。

父は、その前年の11月末に肝臓ガンで入院。東京に住んでいた私は、2月に帰省して見舞う予定だったが、ちょうどその頃、当時、私がおこなっていた厚労省の研究班での研究の報告をしなければならなくなり延期。そうこうしているうちに容態が急変してしまった。

危篤の知らせを受けたときは夜で、もう飛行機は間に合わず、翌日の朝に向かうことにしたものの、間に合わず、深夜に亡くなった知らせを受けることになった。

最後、意識が混濁していく中、おば(父の妹)の手のひらに僕の名前を何度も書いていたと聞いて、入院してから見舞いに行かなかった自分を責めた。


父と私は、距離感のある親子関係だった。女の子が二人産まれた後の男の子である私にいろいろ期待したものはあったろう。私は、その期待に添える自分でないことを常に意識していた。

象徴的に覚えているのは、幼稚園児のときに、父がグローブと野球ボールを買ってくれ、一緒に公園にキャッチボールに行ったときの出来事。最初からキャッチボールに興味もない私は、イヤイヤながらついていった。一方の父親は、きっと息子とのキャッチボールをとても楽しみにしていたはずだ。

しかし...父が投げた第一球目をとることができず、ボールが顔面に当たり、私は大泣きし、それで初キャッチボールはあえなく終了。そして、それっきりキャッチボールに誘われることもなく、グローブもボールも2度と使うことはなかった。

この出来事は、父の(そして、おそらく母のでもある)男の子像に合わない私を象徴するものとしてあり続けた。後々、中学時代にできた親友にその話をしたら、最初は、ゴロをとることから始めるものだ、それはお父さんが良くなかった、と言ってくれ、少しほっとしたのを覚えている。


実は、キャッチボールに行くことを渋ったのは、キャッチボール自体に全く興味がなかったことに加え、父に対して否定的な思いがあったこともある。

父は、酔うと母に激しい暴力をふるう人だった。そういうことが起こるたびに、隙を見て、母と姉は私を連れて家から逃げた。そんな父に、幼い私が懐けるずはなかった。思春期の頃まで憎むような気持ちすらあったように思う。

しかし、いつの頃からか、その面はその面で否定するとしても、私を愛してくれたことに深く感謝するようになった。決して余裕があった家庭ではなかったけれど、県外の大学への進学も認めてくれ、大学卒業してだいぶ経ってからの大学院入学も応援してくれた。

ツイッターにも書いたが、父親が今の私の年齢(53歳)のとき、私は、まだ高校2年生だった。この年齢で、大学進学予定の子を抱えてるってどんなに大変だったろうかと思う(そして、それからだいぶ経ってから大学院への入学もあり)。しかも、父親は大工だったので、体力的にもきつかったに違いない。だいぶ負担をかけてしまった。今は、申し訳ない思いも抱いている。


だが、ぐるぐる話が回ってしまうけれど、父親に感謝し、申し訳ない思いを抱きつつも、激しい暴力のあった(子には手をあげなかったが)家庭に育ったことの傷が、私に大きな影響を及ぼし続けてることを身にしみて感じている。

その傷に蓋をし続けてきたがために、その傷を知らず知らずのうちに化膿させてしまい、むしろ、年を重ねてから影響が大きくなった面があるような気もする。

傷には、暴力を目の間にしてきたことだけでなく、その暴力に「男の子として」立ち向かえなかったこと、そのことを母になじられたことによるものもある。


もちろん、それを自分の問題の「言い訳」にしてもしょうがないと思っているのだが。それにしても、父は、自分自身の問題についてどう考えていたのだろう。今、そのことがとても聞きたい。






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GrassRoots Actions for Diversity オープンリーゲイの文化人類学者 砂川秀樹